体験ブログ danshikou
賛否論者へ、本質から考え直す『おっぱい募金』のあるべき姿
「おっぱい募金」活動停止の声が最近広がってきているが、どの意見をみても一方的な倫理観から生まれる感情論でしか議論されていない。賛成と反対の両側面を踏まえた上で、ゼロベースで本質から考え直す必要があると思いここに提言する。ぜひ、本文を反対派の方々、そして運営側にもぜひ読んでいただき、意見を伺いたい。
自分の倫理観だけでおっぱい募金の是非を語るのは聞き飽きたが、一方でそれぞれの倫理観を尊重する必要もある。現状の日本を踏まえて、おっぱい募金のあるべき姿についてここで3つのポイントを提示したいと思う。
1. 胸を提供する人(女性)の意思が尊重されていれば良い
一番重要なのは、胸を提供する人(女性)が自らの意思で参加しているという点である。さらに、その参加する女性は、”自ら判断する能力”と”その結果に対して責任を取れる能力”を有していることが前提となる。(一般的に健常者の成人女性であること)これが徹底されていれば性の商品化とはなり得ない。
例えば、以下のような場合には、おっぱい募金は廃止するべきだ。なぜならば、人を救済することが最終目的である募金活動なのにも関わらず、人に被害を与えている点において本末転倒だからだ。
芸能事務所が無理やりやらせている
個人の意思が反映されず強制的に体を露出させることによる人権侵害の可能性
未成年の女性が参加している
判断能力を有していない状態で参加した結果、その経験がトラウマとなり将来的に甚大なマイナス影響を及ぼす可能性
一方で、「健常者の成人女性が自らの意思で望んで参加している」限りは大歓迎をするべきであろう。なぜならば、「自分の強みを活かして、その対価をも得ずに募金活動に献身しているから」である。この強みという表現に対して性差別と呼ぶ人もいるようだが、男性を魅了する胸は女性にしかなく、触りたいと思わせる胸は一部の人だけがもっているものも事実である。性差別ではなく性の差異を理解したうえでの尊重と呼ぶべきではないだろうか。
2. 募金するお金は清い気持ちである必要はない
募金は清い気持ちでやるべきだから 「”おっぱい触りたさ” で募金をするべきではない。」という声がでているが本当にそこを考慮する必要があるのだろうか。結論からいえば、”お金を払う対象の動機が清いかどうか”、”対象がおっぱいかどうか”なんであろうがどうでもいいことだ。ここで考えるべきなのは、「募金をする側の動機」ではなく「募金を受け取る側の現実」である。
反論する前に募金を必要とする側の立場を考えるべき
基本的に募金を受け取る側は、救済を要する人である。例えば、あなたが何もない砂漠に生活を強いられて飲まず食わずの餓死状態の中、食事と水を提供されたとしよう。それが「胸を触った男性から集められたお金で提供されているかどうか」なんて気にするだろうか?そんなの気にせずありがたく食糧をもらうだろう。
つまり、「募金するなら清い気持ちでやるべきだ」とキレイ事を言う前に「募金される側がどのような状態にあるのか」を真剣に考えて、本当に必要な人のところに”汚くないお金”がしっかりと届けられていることが重要なのではないだろうか。この点を踏まえて、おっぱい募金運営側も、募金対象を厳格に選定する責任はあることは言うまでもない。
募金のためにお金を払っていなくても問題ない
「募金する人は、募金を目的にお金を払わないといけない。」という人もいるが本当にそうなのだろうか?世の中には、募金を目的にしないでも最終的に立派な寄付金となっている例がある。わかりやすい例は、「24時間テレビでジャニーズがもつ募金箱に列ぶ多くの女性」だ。彼女たちが募金しに行く最大の目的は、「ジャニーズに会いたい」というものだ。
しかし、この行為を否定する人はきいたことない。ジャニーズに会うために募金という名目で払ったお金が、大きな額の寄付金となり必要とする人にしっかりと届けられている現実がここにある。
3. おっぱい募金の活動報告が啓蒙的なプッシュ型であってはならない
上記を踏まえると「おっぱいを触って募金を集う」ことを倫理的に良しとする人たちの世界であれば、その行為自体は立派な社会福祉活動であるということがわかる。
ただし、倫理観はこれまでの環境や教育によって人それぞれなので「胸を触って募金するのはやはり不愉快だ」と思う人がいるのは当然のことであり、そこを無視してはいけない。このおっぱい募金の活動報告が「倫理的に良しとしない人たち」をあおるようなプッシュ型*になってはならない。この点を、運営側は忘れないでほしい。
* プッシュ型とは、テレビなど「人の意思に関わらず情報が提供される形」のことを読んでいる。対局にあるのが検索など「人の意思に従って情報にたどり着く形」である。
結論
成人女性が自らの意思で参加している限り、活動は論理的に指示されるべきだ。ただし、倫理観は尊重すべきなので活動そのものを望まない人に、強制視聴のプロモーションやデモ活動などで無理強いしてはいけない。